「待つ」ということ

こんばんは。来花です。
今日も今日あったことを振り返ります。

今日はお昼休みに刑法総論のM教授とお会いする約束があったので、火曜日は4限から授業の学校にいつもより大分早く着きました。
12時30分。身なりを整えて(好きな教授なので念入りに)研究室のドアをノックしたのですが、いらっしゃらない。
おいそがしいのだろうと思い、扉の前で待ちました。
12時40分。隣の研究室が学長(多分)だと気がつく。M教授はまだいらっしゃらない。
12時50分。他の教授たちが3限の講義のためにぞくぞくと研究室から出ていらっしゃる。M教授はまだいらっしゃらない。
1時10分まで待ちましたが一向にいらっしゃる気配が無かったので退散してきました。
全く責めるつもりはございません。
その後4限の刑法総論の終わりに伺ったところ、体調が良くなかった様です。
というか、忘れていた様です(笑)
ごめんねと仰った時の笑顔にやられちゃったわけなんですが・・・(笑)
書きたいのはそこではなくて、教授の研究室の前で待っていた時に私が見ていたものです。
それは研究室のドアに貼ってあった記事でした。
教授の著作や刑法に対する姿勢の様なものでしょうか。
そのようなことが書いてありました。
そこには私の大学で刑法を教えていらっしゃるもう一人の教授の名前などがあり、M教授の刑法学に対する見解は、その教授たちとは一線を画している、とのことでした。
大学では教授たちが自分の主義主張を持って講義していらっしゃいます。
特に刑法学は教科書や参考書も書かれた方がどの立場でお書きになられたのかが重要な学問です。
しかし私の大学で刑法学は、教務課から割り当てられた教授のもとで受講します。
学生としては教授個人の主義主張よりももっと幅広く様々な考えを学んでいきたいと思うのが正直なところではありますが、教科書参考書の類いも何かしらの見解に分かれているのであれば仕方のないことなのでしょう。
そこでせめて、私の大学では少なくとも2人いる刑法学教授の見解を事前に開示して、学生にどちらの教授のもとで学びたいかを決めさせることは出来ないものだろうかと考えました。
いずれ最初の刑法の講義で学んだこととは異なる見解の教授や教科書に出会い、自らの考えを変えたとしても、やはり学生にとってファースト・インパクト、と言いますか、最初に出会う見解は大変重要な意味を持つものと思います。
ですから見解の事前開示の結果、受講生に偏りがあったとしてもそれと比較すれば取るに足らないとは言わないまでも、多少目を瞑っても良い事柄ではないでしょうか。
と、このようなことを考えたのですが、誰に提案すべきかも分からず、つらつらとこちらに書かせていただいている次第であります。
M教授ともし親しくなれたら、いつかこんなこともお話してみたいと思います。

4限の刑法総論罪刑法定主義について。
一旦は認められた公務員のストライキが、最高裁作成名簿への政府介入によって再び処罰対象にされたことのは驚きでした。
そんなんでいいのか日本!
5限はゼミでゆとり教育について議論。
ギフテッドの導入とか、いろいろとゼミは有意義です。

その後は安いもやしを探して買ったけど、実は家のすぐ近くのスーパーが結局一番安かったって分かってがっかりして、帰宅後Macがまた起動しなくなって、再度OSインストールし直して、お風呂入って今。

今日ももう寝ます。
おやすみなさい。

かまやつひろしの『我が良き友よ』を聴きながら。